味がわからないからこそ、美味しいものを食べに行く
先日、記事にてモヤモヤを吐き出したとおり、私は味覚に問題を抱えている。
周りに主張するようなことでもないのでそれほど大勢の人には伝えていない話だが
職場の同僚や友人に、話の流れで「味がしない」と話すこともある。
するとたいてい、「じゃあ美味しいものを食べに行けないね」という話になる。
体感的に3/4ほどの確率で味をキャッチすることのできない舌を持った状態で美味しいものを食べに行っても、お金と時間が無駄になってしまうよネ…という話。
幸せなことに、私の周りには思いやりに溢れ真心で接してくれる人々ばかりだ。
そのため「食べに行けないね」というのは僕のことを思いやったうえでの発言であり、そんな言葉をかけられた私は、相手の思いやりに感謝すべきなのだろう。
しかし敢えて言わせてもらう。
そんなのは「持たざる者」のことがわかっていない、「(味覚を)持てる者」の驕りであると。
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食べに行けないね発言の根底には、「いまは」という但し書きがついている。
「『いまは』食べに行けないけど、『こんど』食べに行けばいい」という思想である。
そんなもの、「ケーキを食べればいいじゃない」くらいの暴論だ。
そんなことを無自覚にいう輩は、逆剥けに苦しむがいい。
こちとら、1年近く味覚がほぼない状態が続いてるんですよ。
風邪や鼻炎なら1週間も待てば「こんど」は来るけれど、
1年続く味覚なし状態の僕には「こんど」がいつ来るかわからない。
また味覚のオンオフは突然であり、次の瞬間味覚を失うこともあれば、逆に味覚を取り戻すこともある。
つまり「いまは・こんど」思想は砂上の楼閣といっても過言でない。
「味覚スイッチのオンオフ切り替えが予測可能」という、基礎がぐらぐらの前提条件の上に成り立つ理屈だ。
オンオフ切り替えが予測不可である私にとって、①「『いまは』食べに行けない」という判断は間違っているし、それゆえ②「『こんど』食べに行けばいい」も同様に間違いである。
「いまは」がいつまで続くか(いつになったら終わるのか)もわからないし、「こんど」がいつ来るのかについても同じだからだ。
なので私は、いまは味覚が死んでいたとしても、食べる瞬間に味覚が戻ってくる可能性に賭けて、食事をするしかない。
シュレーディンガーの舌なのだ。
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私もいい歳だ。
なので上に書いたようなことは、もちろん同僚・友人には言わない。
そんなことを言い出したら、絶対に面倒なやつだと思われる。
僕が逆の立場で、親切な言葉をかけたのに上のような話をされたら
絶対に「こいつに親切にするのはやめよう」と思う。
僕は周りの人に対して、(できるだけ)親切にしたいと思っている。
そしてそれ以上に、親切にされたいと思っている。
だから変なことは言わない。
さて、いつものラーメン屋に行こうかな。
美味しいか美味しくないかは、運次第ということで。
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